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smart62periodさんの投稿一覧(4)

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smart62period
2019-05-10 17:50:46
[参考]
沢木耕太郎「三人の三塁手」『敗れざる者たち』文藝春秋〈文春文庫〉

内田 今朝雄『もうひとりの4番サードN: 難波昭二郎の軌跡』東洋出版

[来歴・人物]

大阪府生まれ。

『 高槻高等学校 』を経て、

1954年に関西大学に入学。2年生から四番打者を務め、関西六大学リーグでは1956年春季リーグ、1957年春季リーグで優勝。
1年下のエース村山実とともに投打の両輪として活躍し、1956年の全日本大学野球選手権大会でも優勝を飾る。

リーグ通算86試合出場、283打数73安打、打率.258、7本塁打。
当時の『本塁打リーグ記録』を打ち立てた。

大型三塁手として関西の大学野球界を代表する選手で、『 同時期に東京六大学野球で活躍し同じく本塁打のリーグ記録(8本)を作った長嶋茂雄 』と並んで

⬇ココ重要!
『 東の長嶋、西の難波 』と称された。

プロ入りに際して、難波は中日ドラゴンズへの入団が内定していたが、長嶋の獲得見通しが立っていなかった(南海ホークスへ入団すると見られていた)読売ジャイアンツの命を受けた、関大の先輩で読売新聞運動部記者の坂本幸夫から熱心な誘いを受けて翻意。長嶋の入団が決まった後、巨人は難波に対して中日を選んでもよい旨通告したというが、難波は再翻意せずに長嶋と2人そろって巨人へ入団することになった。

1958年春季キャンプ初期の時点では、水原茂監督は二塁・難波、三塁・長嶋を構想していた。
しかし、長嶋の入団により三塁手から二塁手へコンバートされてきた土屋正孝との競争に敗れ、難波は代打や外野手の控えとして40試合の出場に留まる。

1959年は引退した川上哲治の後継を与那嶺要・王貞治と争い、一塁手として17試合に先発出場。同年は二塁手、三塁手、外野手としても起用され、66試合に出場(うち35試合に先発)、本塁打も5本打っている。

しかし、1960年に王が一塁手のレギュラーに定着すると、出場機会が半減する。

1961年は土屋が国鉄スワローズへトレードされ正二塁手不在の状況となるが、藤本伸・塩原明らの台頭を横目にチャンスを生かせず、わずか10試合の出場に終わった。

1962年に西鉄ライオンズへ移籍するが、14打席で8三振を喫するなどほとんど活躍できず、同年限りで現役を引退した。

引退後はデュプロに就職。非公式ながらデュプロ硬式野球部の設立・強化を支援し、1969年には都市対抗野球大会に出場するまでに成長させる。

その後、パイオニアに入社していた坂本幸夫に誘われて、同社に転職[6]。後に当時傘下だったワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍、制作ディレクター・プロデューサー・営業等を務め、その後取締役に就任した。プロデューサー・ディレクター時代には、長嶋茂雄関連の音源の販売権を取得した他、さだまさしや小林幸子等を担当していた。

2009年8月14日に心不全のため死去した。満74歳没。

[エピソード]
長嶋茂雄本人が主人公として出演した1964年公開の映画『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(佐伯幸三監督作品、東宝)で、難波をモデルにした登場人物を佐原健二(劇中では「波山」役。劇中、先述にあった「東の長嶋、西の波山(難波)」という台詞がある)が演じた。

長嶋との交流は引退後も続いていた。長嶋関連の音源販売権を巡って各レコード会社が争奪戦を繰り広げた際、当初難波は黙って見ていた。残り数社に絞られた候補の一つにまでワーナー・パイオニアが残ってから、難波は初めて長嶋に会いに行き、「他の人より、もしかしたらぼくが売る方がいいかもしれない」とだけ伝えたところ、翌日に長嶋から応諾の返事が来たという

#難波昭二郎

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smart62period
2019-05-05 23:01:08
マスターズ甲子園目指して高槻高校OBチームが作れたらなぁ、と思ってる。

エースは原田先輩と中島の左の二枚看板で!
4番は勿論、大野先輩。
俺はヤジ将軍兼代打の最終秘密兵器で!

いや、原田先輩も大野先輩も既にお医者さんになられてお忙しいだろうなぁ…。

#中島隆雄(大阪大)

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smart62period
2019-05-05 22:32:57
2016年の共学化から3年、御代替わり明けて初めてとなる101回大会が3年(72期生)から1年(74期生)までが「男子校生」として臨むことができる最後の大会とは偶然にしてはできすぎであると思えるくらいの僥倖であり栄誉でもある。

戦後最後の中等学校大会(29回大会)に野球部の第一歩を刻み、昭和・平成・令和の時代の大会に男子校高槻を刻むことができた。

男子校高槻ここにありを示すのだ。

74期生が最後の夏を迎え、卒業するまで、その1日、1日が「男子校高槻」の歴史の「最終章」の1ページ、1ページとなってゆく。
卒業の日、諸君らは1万数千の諸先輩に連なり、男子校高槻は「永遠」となる。
諸君らも「歴史」となり、「永遠」となることは言うまでもなし。

男子校再興まで、暫しの雌伏の時。

上枝、下枝に咲く花の
枝の高さ(成績) に差はあれど
仰ぐ空には限りなし
貴様と俺は 同期の桜
(卒業後)別れ別れに咲こうとも…

高槻高校万歳の声を遺してゆく。

槻友会で会おう!

#高槻

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smart62period
2019-05-04 22:25:18
中学の野球部に入って来た時から「モノ」が違った。
夏の大会が始まる前には中学1年生ながら、中学3年生の「主戦」級の先輩投手陣に肩を並べるほど。
先輩が引退してからは「投手はいるが、エース不在」の自分たちの学年の分まで背負ってくれた。
打っては鋭い打球を外野へ運び、守っては外野からのレーザービーム。
年上のすごい人間を見ては「いつかは自分も…!」と意気込んでいた自分が「才能とはこういうことか!」と初めて目の当たりにした。

後に阪大理学部に入学し、硬式野球部入部。
履正社や金光大阪、常葉菊川など野球エリート擁する大学がリーグ内にある中、ベストナイン受賞に、第21回大学野球関西オールスター5リーグ対抗戦に近畿学生野球連盟から外野手として選抜されたのも頷ける。

我が母校、唯一のプロ野球選手「難波昭二郎」先輩に次ぐ、男子校・高槻高校野球部の誇りである。

#中島隆雄(大阪大)

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